京大院卒研究職会社員の勉強にまつわる〇〇な話

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【健全なる精神】と【健全なる身体】の関係性から分かること

👇この記事の目次👇

 

健全なる精神はどこに宿るか?

みなさんは【健全なる精神は健全なる身体に宿る】

という言葉をご存知でしょうか?これを言葉の意味の通り読むと、

・体が健康であれば心も健康になりますよ。だから運動や日々の体調管理を怠らないようにしましょうね。

といった感じの内容に思えるでしょうか。そのように理解している方もいらっしゃるかもしれません。実際に学生の頃の体育の教師がこれを言ってスパルタ指導をしていたのを覚えています。その教師はこの言葉を

・健康な身体にならなければ心は健康にならない。だから鍛えろ!走れ!休むな!

と理解してたのでしょう。

果たしてこの言葉は本来このような意味で使われたのでしょうか?

 

健全なる精神は健全なる身体に宿るとは限りません

この言葉は一〜二世紀のローマの詩人ユウェナリスの「風刺詩集」にある一節から切り抜かれたものです。そこにはこのように書いてあります。

【人は神に対して『健全なる身体に健全なる精神』が与えられるように祈るべきだ】

似たようなことを言っているようで実は全く違います。

この詩集はタイトルからも分かるように社会の風刺を書いたものです。つまりユウェナリスさんが言いたかったのは

【健全なる身体に健全なる精神が与えられればいいのになぁ(そうとは限らないのが残念だ)】

ということだったのです。なぜユウェナリスさんはそのような考えに至ったのでしょうか?

 

当時は健全なる身体を持った人が健全なる精神ではなかった

古代ローマの娯楽の一つとして"殺し合い"があったのをご存知でしょうか。コロッセオという闘技場の名前を聞いたことがある方もいるかもしれません。今は観光名所として有名です。そこではかつて人や猛獣が殺し合いをしていたそうです。【剣闘士vs剣闘士】【剣闘士vs猛獣】【猛獣vs猛獣】など、鍛え抜かれた戦士達が人々を楽しませるために互いに命を賭けて戦っていたのです。狂気の沙汰のようであり、いずれも今の感覚では残虐な行為のようにに思えます。

その感覚をユウェナリスさんは当時も持っていたために

【健全なる身体に健全なる精神が与えられればいいのになぁ(そうとは限らないのが残念だ)】

という気持ちになったのではないでしょうか。

 

悲しい歴史の皮肉

しかしユウェナリスさんの風刺は誤って理解された結果、本来の思いとは真逆な使い方で広まってしまいます。それが【戦争】です。

軍国主義の象徴的なキーワードとしてナチス・ドイツをはじめ、様々な国が軍事力増強のためにこの言葉を使ったのです。

まさに最初に例に出した体育教師と同じです。

 

最後に

人は歴史から学ばなくてはいけないことがたくさんあります。しかし誤った理解は、それが故意かどうかに関わらず世界を誤った方向に向かわせる可能性があります。

現在(2023年9月)でも戦争がなくなることはなく、人と人とが殺し合う状況が続いています。

我々が後世の人間に正しく伝えるべきこととは一体なんなのでしょうか。